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更新日:2017年8月9日

寺具(てらぐ)城跡に行きました(飯島章)

つくば市寺具にある寺具城跡に行きました。場所は、下の地図もご参照ください。
『茨城県遺跡地図』では、中世から近世の城館跡(じょうかんあと)となっています。

上の写真は、南西側から北東側を望んだものです。
北側から南側へ、半島状に台地が伸びているのがわかります。
手前側は、元は水田であったと思われます。戦国時代のころは、沼地のようになっていたと考えられます。

やや西によって撮影しました。光線の具合で東側の写真は撮れませんでしたが、北側のみが台地とつながり、東・南・西側は沼地に囲まれ、自然の地形を利用して守るに易く攻めるに難い場所に城を築いたのがわかります。
上の写真からさらに北西に進んで撮った写真が、下の写真です。

今回つくば市にある寺具城跡を紹介したのは、取手ともかかわりの深い本多作左衛門重次とのつながりからです。
元和(げんな)3年(1617)、本多重良(しげよし)は、父の成重(なりしげ、重次の子)が重次から継承した下総国相馬郡(現取手市域)の領地をあたえられ、後に常陸国筑波郡に移されました。
ここ寺具城は、この周辺に領地を得た重良が、陣屋を設けた場所とされています。重良は、重次の孫にあたります。
しかし元和8年の時点でも、下総国相馬郡の領地は、本多成重が有していたと考えられる史料もあります。
元和8年10月22日、2代将軍徳川秀忠は、本多成重に対して領地である「北相馬郡井野郷桑原村青柳村」で、鳥をとっても良いという黒印状をあたえています。今でいえば、狩猟許可証のようなものです。
黒印状の現物は伝わっていないようですが、確実な写しが何点か残されています。
重次のご子孫宅に伝わる写しを、埋蔵文化財センターで開催中の第42回企画展「村のお殿様-取手を治めた旗本たち-」で展示していますので、ぜひご覧になってください。

センター企画展については、前回の8月1日、前々回の7月24日の私のささやきをご覧ください。

今回のおまけは、「取手で鳥を取る」ということで、酉年にちなんで久しぶりに鳥にまつわる御朱印を紹介します。
下の写真は、兵庫県太子町(たいしちょう)にある斑鳩寺(いかるがでら)の御朱印です。

昭和60年(1985)8月13日にお参りしています。今から30年以上前です。
斑鳩寺のあるあたりの地名は、鵤(いかるが)と呼ばれています。
奈良県にある法隆寺が創建されたころから法隆寺の領地となり、鵤荘(いかるがのしょう)と呼ばれる荘園がありました。お寺の名前の斑鳩や、地名の鵤は、法隆寺のある奈良県の斑鳩から来ています。
太子町の名称も、法隆寺とかかわりの深い聖徳太子から来ています。
ここ太子町の斑鳩寺も、数多くの文化財が残る名刹(めいさつ)です。
斑鳩も、鳥の名称で「イカル」の別称だそうです。

今回は話が長くなってしまいました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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