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更新日:2018年5月22日

としょかんまつりで歴史講演会(飯島章)

取手図書館で開催のとしょかんまつりで、埋蔵文化財センター職員が講師となって歴史講演会を開催します。

日時

平成30年5月20日(日曜日)、午後1時から2時30分まで

演題

信長の時代、その時、取手は 大鹿城(おおしか・じょう)・小文間城(おもんま・じょう)をめぐる攻防-取手の地名の由来-

定員

50人(当日受付順)

内容

織田信長が活躍していた時代、取手はどのような状況だったのでしょうか。
永禄4年(1561)、小文間城主の一色宮内(いっしきくない)は、かねてから不仲だった大鹿城主の大鹿太郎左衛門(たろうざえもん)を急襲します。
大鹿勢には、稲(いな)城主の高井十郎と利根川の対岸柴崎(しばさき)城主の荒木三河守(みかわのかみ)が加勢し、ついに一色勢は破れます。
伝説に彩られた取手の合戦物語の背景には、利根川沿いに勢力を伸ばす幸手一色氏と、永禄4年の上杉謙信の関東出兵を契機に動揺する関東各国の土豪たちの、いくばくかの史実が反映されているのではないかと考えられます。

信長の時代

大鹿城・小文間城を巡る合戦があったとされる永禄4年の前年、永禄3年に起きた桶狭間(おけはざま)の合戦で信長は今川義元を討ち取ります。
桶狭間の場所については、名古屋市の東の端にあたる緑区説と、その東側豊明市(とよあけし)説の二つがあります。

名古屋市説

名古屋市の東端、名古屋鉄道の有明駅から南に約1.5キロメートルの場所が、今川義元が信長に討たれた桶狭間と言われています。現在の住居表示にも桶狭間の地名が使われています。
古戦場跡は、桶狭間古戦場公園となっています。
桶狭間古戦場公園

公園内には、今川義元と織田信長の銅像も設置されています。下の写真になります。
今川義元と織田信長の像
右が今川義元、左が織田信長です。
公園内の碑
上の写真の中央の小さな石碑は、江戸時代の文化13年(1816)に建立されたもので、「桶狭間古戦場」と書かれています。
左側の石碑は、昭和8年(1933)に建立された桶狭間古戦場田楽坪(でんがくつぼ)の碑です。
また公園内には、明治45年(1912)建立の「今川義元戦死之地」と書かれた石碑も建立されています。
下の写真になります。
今川義元戦死の地の碑

豊明市説

有明駅から名古屋鉄道の電車に乗って一駅、中京競馬場前駅で降りるとそこは豊明市です。
駅のすぐ南側がもう一つの桶狭間古戦場跡です。
こちらも公園になっています。下の写真が入り口です。
桶狭間古戦場跡公園

上の写真の右側に立つ碑は、昭和16年建立の史跡桶狭間古戦場の碑です。下の写真になります。
史跡桶狭間古戦場の碑
下の写真は、公園内に建つ弔古碑(ちょうこひ)です。
文化6年(1809)に建立され、桶狭間の合戦をしのぶ文章や詩、建碑の由来などが書かれています。
弔古碑
下の写真は、やはり公園内にある今川義元の墓石です。
明治9年(1876)に建立されています。

今川義元の墓

どうも江戸時代から桶狭間の古戦場の場所をめぐっては、現在の名古屋市側と豊明市側の二説があったようで、現在でも定説はないようです。
名古屋市側の桶狭間で今川勢は織田勢の急襲を受け、織田勢の追撃をかわしながら義元は豊明市のあたりまで後退し、遂にここで討たれたとの折衷案(せっちゅうあん)もあるようです。
今回はおまけの話が長くなりました。
桶狭間での信長の奇襲作戦を伝え聞いた一色宮内は、大鹿城を急襲したのでしょうか。
としょかんまつりの歴史講演会にご来場ください。

 

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