現在位置 ホーム > 月・木・SAY 職員のささやき > 生涯学習課・埋蔵文化財センター・公民館 > 飯島 章 > 今年は寅年、寅薬師(飯島章)
ここから本文です。
またまたご無沙汰をしてしまいました。
皆様健やかにお過ごしのことと存じます。
前回「取手の火の見やぐら(その3)」で、市内吉田地区の集会所を取り上げました。
下の写真が集会所になります。場所は、このページ一番下の地図をご参照ください。
建物に向かって左側に出入口がありますが、右側にも屋根付きの玄関があるのが見て取れます。
もう少し右に寄って撮影したのが、下の写真です。
玄関の右側に小さなお堂と石碑があります。後ほど説明します。
玄関の上には額が掲げられています。下の写真になります。
右から左に「薬師如来(やくしにょらい)」と書いてあります。
額の左側には、「昭和十五年六月吉日 東京市浅草区清明町 金東講一同」と記されています。
昭和15年は、西暦では1940年になります。
薬師如来は、その名の通り病気平癒(へいゆ)にご利益のある仏様です。仏像では、薬壺(やっこ)と呼ばれるその名の通り薬を入れる小さな壺を左手に持っています。
医療が今のように発達していない時代、人びとは薬師如来に病気平癒を祈ったのでしょう。
さてようやく本題の寅薬師です。
寅薬師とは、文字の通り寅の日に薬師如来にお参りすることを言うようです。
なぜ寅の日に薬師如来にお参りに行くのかについては、実はわかったようでよくわかりません。
薬師如来は、東方浄瑠璃(じょうるり)世界にいらっしゃる。寅の方角は東になるので、寅の日に薬師如来にお参りするとご利益があると言われています。
こざかしい話ですが、東の方角は「卯(う)」にあたり、寅は東北東かそれよりやや北の方角になります。
また、寅薬師と呼ばれている薬師如来をご本尊とする寺院があります。
その一つに、京都市中京区新京極(なかぎょうくしんきょうごく)にある西光寺があります。
西光寺の本尊薬師如来は、弘法大師空海の作になり、寅の日の寅の刻に完成したので、寅薬師と呼ばれるようになったと伝えられています。
下は、寅薬師の御朱印です。
(筆者所蔵)
平成7年(1995)4月9日にお参りしました。なんとそれから27年の歳月が流れました。
寅薬師の由来は、そのお寺によっていろいろのようです。
いずれにせよ、寅年と薬師如来は深いつながりがあると言えます。
ところで、吉田集会所の入り口に「薬師如来」と書かれた額が掲げてあるのは、なぜなのでしょうか。
さて集会所の敷地を見渡すと、消防団の車庫の後ろにいくつかの石碑があるのがわかります。
一番新しい碑が、下の写真になります。
昭和52年(1977)に建立された「薬師堂集会所再建記念」の碑になります。
碑文には、およそ次のようなことが書かれています。
吉田集会所の建物の前身は、薬師如来をおまつりする薬師堂であったことがわかります。
昭和14年(1939)の火災で焼失した薬師堂の再建に、浄財を寄進したのが大師講の信者です。
大師は、この場合弘法大師空海をさします。
弘法大師ゆかりの寺院八十八か所を巡るのが、四国八十八か所霊場です。
しかし、現在にあっても遠く四国の寺々を巡礼するのはかなりの困難を伴います。
ましてや江戸時代にあっては、なおさらのことでした。
そこで、四国八十八か所霊場を移したミニ四国八十八か所が各地に創設されます。
新四国相馬霊場八十八か所は、現在の取手市と千葉県我孫子市・柏市につくられたミニ四国八十八か所の一つです。
ここ吉田の薬師堂は、その十一番札所になっていたのです。
下の写真は、新四国相馬霊場第十一番札所の御朱印です。
(筆者所蔵)
上で見た吉田集会所の向かって右側、玄関脇にある小さなお堂がこの十一番札所の大師堂になります。
消防団の車庫の後ろに立つもう一つの石碑が、下の写真になります。
昭和15年6月吉日に、霊場保存会によって建立された大師堂再建記念碑になります。
薬師堂(吉田公民会)が火災で焼失したのが昭和14年、その再建に合わせて大師堂も再建されたのでしょう。
あるいは、薬師堂と一緒に大師堂も焼けてしまったのでしょうか。
上で見た第十一番札所の右脇に立つ碑が、下の写真です。
「紀元二千六百年十月」に建立された「薬師堂再建記念」の碑です。
紀元とは、「古事記」や「日本書紀」に書かれた神話の時代、初代天皇の神武天皇が即位した年を元年として数える日本独自の年代です。
「古事記」や「日本書紀」の神武天皇即位の年月日は、現在使用しているグレゴリオ暦では紀元前660年2月11日になります。
よって紀元2600年は昭和15年(1940)になります。この碑文から、薬師堂の再建がなったのは焼失の翌年にあたる昭和15年であったことがわかります。
吉田集会所の玄関上に掲げられた薬師如来の額も、薬師堂再建に合わせて新調され奉納されたことがうかがえます。
薬師堂と大師堂が、地元吉田地区をはじめ多くの人びとによって大切に守り伝えられてきたことが、額や石碑の文章を読むことで伝わってきます。
今回は意外と長い文章になってしまいました。
最後までお読みいただきまして、まことにありがとうございました。