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更新日:2022年3月28日

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『利根川図志』の世界-そのいち-(かみや)

利根川図志とは

 安政5年(1858)、下総国布川村(現北相馬郡利根町)に住まう赤松宗旦が『利根川図志』を出版しました。

 全6巻からなるこの書は、関東平野を流れている利根川流域に焦点がおかれた地誌です。第1巻は、総説として利根川の源流であるとされていた上野国と越後国の境にある文珠山から記述が始まり、利根川流域の運輸や天候、物産などを紹介しています。第2巻から第6巻までは、利根川中流域の古河から利根川が太平洋に注ぎ込む終点の銚子までが描かれています。各地の名所旧跡や歴史など様々なことに触れています。

 総説からも『利根川図志』が広大な世界観を持ち、執筆されたことが想像できます。では、著者の赤松宗旦とはいったい何者なのでしょうか。

3人の宗旦

 赤松家には、宗旦と名乗った人物は3人います。初代宗旦は宗旦「恵」といい、遠江国中村日蓮(現静岡県掛川市)で生まれ、江戸・土浦で医術を学びました。土浦、布川、武蔵国千住(現東京都足立区)へと移り住みました。『利根川図志』を著した宗旦は2代目の宗旦「義知」です。義知は恵が没したのち、母の実家を頼り、下総国吉高村(現千葉県印西市)に住み、彼は父である恵と同門であった吉高村に住み医師、前田宗珉に入門しました。医師となった義知は、天保9年(1838)にふるさとである布川へと移住しました。3代目の宗旦は、義知の養子で宗旦「宗伯」といいました。余談ですが、民俗学の学祖として有名な柳田国男は少年時代を布川で過ごしていました。柳田の兄は宗伯と同業の医師であり、親しかったようです。

赤松家と取手

 赤松家と取手地域には意外なつながりがあります。その鍵を握るのは3代目宗旦の娘婿である赤松資三郎です。赤松資三郎は、山王村(現取手市山王)にある山王小学校の校長を務めていました。彼は教育功労者として有名ですが、長く山王に住んでいました。

次回予告

 次回から『利根川図志』に描かれた取手の名所旧跡・寺社仏閣などを紹介します。第2回目は常総地域で有名なあのひとの足跡をたどる予定です。

 また、ふじしろ図書館の郷土資料コーナーに和本の『利根川図志』があります。(写真はふじしろ図書館でご許可のもと、撮影しました)活字になったものもありますので気になったかたはぜひふじしろ図書館に足を運んでいただけると幸いです。

参考文献

野口如月『北相馬郡誌』(北相馬郡志刊行会、1918年)(注意)本稿を作成するにあたり、崙書房から出版された野口如月『北相馬郡志』(崙書房、1971年8月)の復刻版を参照いたしました。

赤松宗旦『利根川図志』(岩波書店、1938年11月)

附載「赤松宗旦年譜 付赤松家家系図」(崙書房、1973年8月)

赤松宗旦『利根川図志』(崙書房、1973年6月)

川名登『評伝 赤松宗旦』(彩流社、2010年9月)

 

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