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更新日:2021年6月11日

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『取手市史』から広がる郷土の歴史(その4)(飯島章)

明治11年の茨城県古蹟調査と藤原藤房(ふじわらのふじふさ)

『取手市史』近現代資料編1の133ページに、明治11年(1878)1月9日付けの茨城県土浦支庁第3課から管内町村の副区長・正副戸長あての通達が掲載されています。
内容は、常陸国において亀ヶ岡および藤房卿(ふじふさきょう)の隠逃所(いんとうしょ)があれば、名称・郡名・町村名・面積などを詳細に取り調べ、大至急提出するようにとなっています。

藤原藤房は、鎌倉時代の終わりから南北朝時代に活躍した貴族です。
後醍醐天皇の側近として建武新政権下で重く用いられます。『太平記』には後醍醐天皇にも諫言(かんげん)する気骨ある人物として描かれています。
しかし突然出家して人びとの前から姿を消し、その後半生は謎に包まれています。

笠間市泉にある藤原藤房の遺跡

昭和48年(1973)、当時の国鉄常磐線の岩間駅の観光案内板に藤原藤房遺跡の文字を見つけた中学生だった筆者は、以後藤原藤房はどのような人物で、岩間駅近くにあるという藤原藤房遺蹟ははどのようなものであるか、気にはとめていたものいつしか数十年の歳月が流れてしまいました。
そしてついに常磐線岩間駅から1キロメートルの場所にある藤原藤房の遺跡を訪ねることがかないました。
場所は、このページ下の地図をご参照ください。現在は笠間市の泉になります。
県道385号線を石岡から笠間方面に走り、岩間駅周辺の市街地にそろそろ入ろうとする辺り、県道の左側に石碑が建っています。
下の写真になります。
藤原藤房の遺跡を案内する石碑
碑の表面には、「藤原藤房郷遺蹟」、「是より西二丁」と刻まれています。
「卿」と書くところ、石碑では文字が「郷」となっています。
裏面には建立年代が、「昭和十六年十月」と刻まれています。

藤原藤房卿遺蹟

二丁は約200メートルです。
石碑のところを左(西)に曲がり200メートルばかり進むと、右側(北)に鳥居が見えます。
下の写真になります。
笠間市泉にある藤原藤房遺蹟の鳥居
鳥居をくぐって参道を進みます。
途中左側に手水石(ちょうずいし)があります。下の写真です。
詣でる人はここで手を洗い、身を清めたことでしょう。
鳥居とともに、ここがまさに神聖な場所であったことがわかります。
藤原藤房卿遺蹟の参道にある手水石
石段を登ります。登りきったところに石碑が建っています。下の写真です。
藤原藤房卿遺蹟参道の石段
石段を登って小高い丘の上にたどり着くと、「藤原藤房卿遺蹟」と彫られた石碑が建っています。
下の写真になります。
藤原藤房遺蹟の石碑
碑の裏面には、次のようなことが書かれています。

  1. ここは藤塚と呼ばれ、貴人のお墓と伝えられてきた。
  2. 昭和9年5月、ここから藤原藤房の俗名と法号を刻んだ石碑二つが発見された。
  3. そのため、ここが藤原藤房の墓所であることが判明した。

鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇の親政が始まった元弘3年(1333)からは昭和8年はちょうど600年、翌年に元号が建武と改元されてからは昭和9年がちょうど600年にあたります。
世の中は、「建武中興600年」で沸き立っていました。
この碑が建立されたのは、昭和10年でした。
すなわち、建武改元からちょうど600年経った昭和9年に、藤原藤房の墓碑(のようなもの)が発見されて、ここに藤原藤房が眠っていることが判明したという話になります。

御前塚古墳

さてこの藤原藤房遺蹟の北側すぐに古墳があります。下の写真になります。
御前塚古墳
笠間市の教育委員会の石柱と案内板があります。
下の写真は、石柱です。御前塚古墳と呼ぶようです。
御前塚古墳の石柱
案内板は、下の写真になります。
御前山古墳の案内板
下の写真は、御前塚古墳の墳頂からみた藤原藤房の遺蹟です。
ここは古来から貴人の墓と伝えられてきたようですが、古墳とみて間違いないでしょう。
御前塚古墳から見る藤原藤房の遺蹟

岩間駅近くに藤原藤房の遺跡があると知ってから幾星霜、いつかは探し当てて訪ねてみたいと思い続けた場所にようやくたどり着くことができました。
実在の人物でありながらも、その生涯、特に後半生は謎と数多くの伝説につつまれた藤原藤房。
藤原藤房の史実を解き明かすことはできませんが、ようやくここにたどり着きことができました。

おわび

今回も取手とはあまり関係のないささやきになってしまいました。
最後までお読みくださいまして、厚くお礼申し上げます。

 

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