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更新日:2021年7月13日

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【市長コラム】終戦の日に思う

市報「広報とりで」2018年8月15日号に掲載した市長コラムです。

73回目の終戦の日を迎えました。先の大戦で尊い命を落とされた方々に謹んで哀悼の誠(まこと)をささげます。平和への決意を新たにするとともに、国際協調と多文化理解を主体的に担う次世代育成が重要であると考えております。

さて、東京芸術大学大学美術館では、5月から7月に「NHK大河ドラマ特別展『西郷(せご)どん』」が開催されました。歴史的価値のある貴重な展示がたくさんあり、薩英戦争絵巻が展示されていました。興味をひかれたので少し資料を読み込んでみました。ちょうど今から155年前の1863年8月15日に鹿児島湾において薩英戦争の火ぶたが切られ、3日間にわたり激しい交戦となりました。鹿児島市街地では艦砲射撃によって近代洋式工場群の集成館、藩士屋敷、民家、藩所有船、民間船の焼失など市街地の10分の1が焼失しました。一方で、イギリス側も旗艦ユーライアラスの艦長をはじめ11人が戦死し、52人が負傷するという大きな犠牲を払っています。

この戦争は、前年の「生麦事件」が発端となって起きたものです。薩摩藩国父・島津久光の行列が生麦村(横浜港付近)に差し掛かった時、行列に遭遇したイギリス人4人が騎乗のまま行列を乱し、そのことに激怒した薩摩藩士が斬りかかりイギリス人1人が死亡しました。幕府は10万ポンドの賠償金を支払い謝罪しましたが、薩摩藩は犯人の公開処刑と2万5千ポンドの賠償という要求を拒否し続けたため、イギリスが7隻の艦隊を引き連れて鹿児島に現れたという経緯です。この戦争を終結させるに当たり薩英、互いに相手の不法行為を論難して譲らず、2度の談判を経ても合意を見ませんでしたが、3回目に幕府の説得により、ようやく講和が成立しています。

私が歴史に学ぶべし、と感心するのはその後の薩摩と英国の対応です。この薩英戦争の際に捕虜とされた五代友厚が、長崎潜伏中にイギリス公使トーマス・グラバーと懇意になり、薩摩藩に対し今後の国づくりのために海外留学生を派遣すべしとの建議を行い、これが引き金となり、薩英戦争のわずか2年後、薩摩藩は幕府に内緒で19人のイギリス留学生を送り出しました。やがて、帰国した留学生たちは、初代文部大臣森有礼(ありのり)、外務卿・文部卿寺島宗則、大阪商工会議所会頭五代友厚ほか、日本の近代化を支える貴重な人材として時代を開くフロンティアとして活躍してくれたのです。

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