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更新日:2024年1月19日

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取手の橋を訪ねて(その3)(飯島章)

藤代駅前の相馬橋

またまたご無沙汰をしてしまいました。
今回は、藤代駅北口のすぐ近くにある「相馬橋」を紹介します。
場所は下の地図もご参照ください。
写真は下になります。
藤代駅北口前にある相馬橋の全景
いかにも古めかしい親柱と欄干が、道路の両側にたたずんでいます。
コンクリート製ではなく、石造りです。古いながらも、なかなか趣のある形態です。
かつては川が流れていたのでしょうが、今は暗渠(あんきょ)となっているようです。
下の写真は、橋の西脇(上の写真では手前側)にある雨水桝と、そこから西に向かって伸びる暗渠の蓋です。
蓋の左側(南側)の道路は、かつては川だったと思われます。
雨水枡と暗渠の蓋
親柱には文字が刻まれています。
次の写真は、北西側の親柱です。漢字で「相馬橋」と楷書で書かれています。
北西側の親柱に彫られた「相馬橋」の文字(楷書)
次は南西側の親柱です。やはり漢字で「相馬橋」と、こちらはくずし字で書かれています。
南西側の親柱に彫られた「相馬橋」の文字(くずし字)
次は南東側の親柱です。
表面が磨滅していて、完全に判読するのは難しいですが、平仮名で「そうまばし」と書かれています。
あるいはにごらずに「そうまはし」かも知れません。
南東側の親柱に彫られた「そうまばし」の文字
最後は北東側の親柱です。こちらはさらに摩滅が著しくて、判読は難しいです。
竣工年とかが書いてあるとよかったのですが、わかりません。

北東側の親柱に彫られた文字(判読不能)

「相馬橋」考

さて相馬橋は、藤代駅から旧水戸街道につながる道にあります。
藤代駅の開業は、明治29年(1896)12月25日です。
この日、日本鉄道土浦線が開業し、水戸と上野が現在の常磐線経由で結ばれました。
相馬橋の架設は明治29年にまではさかのぼれそうもありませんが、当時このあたりは相馬町でした。
明治22年4月1日、江戸時代からの藤代宿・宮和田村・片町村・平野村・椚木村(くぬぎむら)が合併して相馬町となっています。
明治30年11月刊行の細谷益見(えきけん)著『茨城県町村沿革誌』(外部リンク)(別ウィンドウで開きます)の「相馬町」のページには、相馬町の名称の由来が以下のように記されています。
すなわち相馬町は北相馬郡の中央に位置し、江戸時代は水戸街道の著名な宿場があり、周辺の農村地帯のなかにあって市街地を形成していたことから、町名を相馬町と名付けたとしています。
この町名の由来からは、単に地理的にのみならず、自分たちは北相馬郡の政治・経済・文化の中心地にいるのだという当時の人びとの誇りが伝わってくるようです。
日本鉄道土浦線の駅名は藤代駅となりましたが、相馬町は昭和30年(1955)2月21日に町村合併で藤代町が誕生するまで続いています。
駅前の小さな橋ですが、この橋を「相馬橋」と名付けた地元の人びとの心意気が感じられます(考えすぎかもしれませんが)。
この相馬橋の架設年代は、確証は得られませんが、少なくとも昭和30年以前にはさかのぼれそうです。

取手桜が丘ゴルフクラブの吊り橋

市ホームページの「投稿型魅力PRサイトほどよく絶妙とりで」で、取手桜が丘ゴルフクラブ内にある北浦川に架かる吊り橋が紹介されています。
「吊り橋」の紹介記事(外部リンク)も、ぜひご覧ください。
この吊り橋は、脇を車で通った時に何度も見ていたのですが、ゴルフカートも通ることは初めて知りました。

藤代駅前の相馬橋とは直接の関係はありませんが、同じ橋つながりで紹介させていただきました。

最後にお詫び

今回も長文になってしまいました。
最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

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