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水戸街道は千住と水戸を結び、取手は千住から数えて6番目の宿場でした。貞享4年(1687年)、染野家は水戸徳川家から本陣に指定され、歴代の水戸藩主をはじめ多くの大名や武士たちが、宿泊や休憩に利用しました。
旧取手宿本陣染野家住宅は、水戸街道の宿場から発展した取手を象徴する文化財です。
毎週金曜日から日曜日(年末年始を除く)
午前10時から午後4時まで(入場は午後3時30分まで)
無料
取手市取手2丁目16-41
取手駅から徒歩8分
無料駐車場があります。取手商工会と銀行の間を入ります。突き当りが無料駐車場です。
本陣には、寛政7年(1795年)建築の主屋(しゅおく)の他、江戸時代の建物として土蔵と表門が残っています。表門を入ると、そこには大名行列や旅人が街道を行き交った江戸時代の雰囲気が残っています。
また水戸藩第9代藩主徳川斉昭(なりあき)の歌碑があり、水戸徳川家と本陣の深いつながりを現在にまで伝えています。
昭和62年(1987年)には敷地を市の史跡に指定し、さらに平成8年には主屋と土蔵が県文化財の指定を受け、その間に土蔵と表門は全解体修理、主屋は半解体修理を行いました。さらに平成26年には、表門が県文化財の附(つけたり)指定を受けています。
この旧取手宿本陣敷地内の見どころをページ下部で紹介しています。
主屋は寛政6年(1794年)の取手の大火で焼失しており、現存する建物は寛政7年に建築されたものです。
本陣は、その土地の名主など有力者の家があてられることが多く、武士が本陣として使用した部屋と、そこに居住する人びとが日常生活を営んでいた部屋に分かれていました。下の屋敷図の青色で示した範囲(上段の間、二の間、三の間、なかのま、玄関、式台)が本陣として使用した部屋、赤色で示した範囲(なんど、なかなんど、ちゃのま、ひろま、石くど、どま)が染野家の人びとが生活に用いた部屋です。
本陣正面の板敷の部分を式台と言います。駕籠(かご)に乗ってきた大名など身分の高い武士は、式台に駕籠を横付けして地面に降りることなく建物に入りました。式台からあがった部屋が玄関の間です。式台玄関の上の屋根は、堂々とした入母屋破風(いりもやはふ)となっていて、本陣の格式と風格を保っています。
主屋西側には8畳間が南北に3部屋つながっています。南側(下の写真の手前側)から三の間・二の間で一番奥(北側)が上段の間です。水戸藩主など一番重要な人物が使用したのが、上段の間です。二の間と三の間の天井とふすまの間にある菱格子の透かし欄間(らんま)が、優雅な雰囲気を醸し出しています。
上段の間には床(とこ)と違棚(ちがいだな)・天袋(てんぶくろ)がついています。違棚は、中央が一段高くなった「井楼棚」(せいろうだな)です。この天袋と井楼棚の組み合わせは床の間の格式で最も高いものです。床の左側の平書院の障子の上には、ひょうたんのくりぬきのある板欄間がはめ込まれています。
染野家の人びとは、どまの大戸から建物に出入りしていました。どまから天井を見上げると、3段に組み上げられた梁が屋根を支えている姿が目に入ります。また、大黒柱は3本あり、1番太い柱は梁の2段目、他の2本は梁の1段目で屋根を支えているのがわかります。
ちゃのまは家族のだんらんの場所です。現在、染野家のちゃのまには畳が敷いてありますが、もとは板敷だったようです。ちゃのまには床(とこ)がついています。これは後から設けられたものと考えられます。
ちゃのまの床の左側には、明治時代以降に作られたガラス戸があります。ガラスの表面は波打ち、中には気泡があり、現在のガラスにはない味わいが感じられます。
主屋正面の式台玄関の右側には明治初期に作られた郵便窓口があります。建物の外面に面している明治初期の郵便窓口は、全国で4か所しか現存していない内の1つで貴重なものです。
郵便制度は、明治5年(1872年)に全国で一斉に開始されました。明治11年3月に、当時の染野家当主である染野晋(すすむ)は、現在の特定郵便局長にあたる五等郵便取扱役に任命されました。その際に、式台玄関の右側が郵便局に改造されました。
土蔵は四面を土壁で覆い、漆喰(しっくい)で塗り固めていた倉庫です。このように土で壁を塗り固めることによって、火災から土蔵の中の物を守ることができます。また土蔵には、温湿度の調整効果もあるため、中の物が痛みにくいと言われています。
土蔵の建築年代は不明ですが、建築様式や染野家に残る屋敷図から、主屋や表門と同時代の18世紀末から19世紀初めに建てられたと考えられます。
表門は桟瓦葺(さんがわらふき)の薬医門(やくいもん)で、染野家に残された記録から文化2年(1805年)に建てられたと考えられます。
本陣の裏山には、水戸藩第9代藩主徳川斉昭の歌碑があります。歌碑には「指して行く さほのとりての 渡し舟 おもふかたへは とくつきにけり」の和歌が刻まれています。
天保11年(1840年)1月、江戸から水戸に向かう斉昭は、利根川を渡る船の中で和歌2首を詠みました。その日、本陣に宿泊した斉昭は、翌朝上段の間の袋戸に2首の和歌を貼りつけて出立しました。
天保14年(1843年)、斉昭はこの内の1首を歌碑に刻み、染野家に贈りました。
歌碑は、主屋西側の裏山と呼ばれている小高い場所に今も残っています。本陣見学の際には、斉昭の歌碑もぜひご見学いただき、水戸徳川家と本陣染野家の深い結びつきを感じてください。
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